2017年10月26日
本は残りカス?
輪扁(りんへん)は、『荘子』外篇の天運篇の最後に登場する「寓言」中の人物。輪扁とは、「車大工の扁」を意味し、「扁」が名。とても走りの優れた車輪を削り出します。
その寓言つまりお話を紹介します。
桓公(春秋時代・斉の第16代君主)が本を読んでいると、傍らにいた車輪職人の輪扁が、
「あなたは、どんな本を読んでいるのですか?」と尋ねた。
「聖人の経典だ」
「その聖人は生きているんですか?」
「とっくに死んでいる。」
「じゃ、あなたの読んでいるのは、古人の残り滓(カス)みたいなもんですね。」
「お前は、なんてことを言うんだ。どういう道理でそんなことを~。きちんと筋道の通った説明をしろ。出鱈目をいうと死罪にするぞ。」
「怒らないでください。私は車輪職人ですので、車輪作りに例えて説明させていただきます。車輪を作る時、手先だけで急いで削ると省力にはなるけどガタガタな車輪に仕上がります。ゆっくり、丁寧に心を費やして削ると車輪は圓くなります。車輪を作るには技術が必要です。削り方が早くても遅くてもダメです。その手と感覚だけが頼りになります。この不快不慢(早くもなく遅くもなく=急がず、考え過ぎず)は、心に手が応じた功夫(技、テクニック、コツ)。これを息子に伝えているのですが、まだ功夫が足りません。ですから、70歳になるというのに引退もせずに働き続けています。その本を著した聖人もまた、その知恵を言葉で伝えただけで、本質を伝授しきれずにこの世を去ったのではないかと思います。そんな訳で、聖人の残り滓だと申し上げたのです。」
師匠は弟子に、丸や四角という基本的なきまりを教えることはできますが、技術の高低は弟子の努力。武術にしても師匠は弟子に型を教えることはできますが、功夫は、自分自身の修行を通して実としていくもの。
本に書かれていることは貴重ですが、大切なのは、その本質を追及理解すること。本を暗唱できるからといって、本に書かれている事柄を掌握しているとは限りません。
言葉や文字で伝えることの難しさ、あるいは、書き残された知識は得られたとしても、そこに尽くされていない肝心な神髄は理解することができないことを意味する比喩として言及される話となった。
ーーということで、私のブログも残りカスですな。 続きを読む
その寓言つまりお話を紹介します。
桓公(春秋時代・斉の第16代君主)が本を読んでいると、傍らにいた車輪職人の輪扁が、
「あなたは、どんな本を読んでいるのですか?」と尋ねた。
「聖人の経典だ」
「その聖人は生きているんですか?」
「とっくに死んでいる。」
「じゃ、あなたの読んでいるのは、古人の残り滓(カス)みたいなもんですね。」
「お前は、なんてことを言うんだ。どういう道理でそんなことを~。きちんと筋道の通った説明をしろ。出鱈目をいうと死罪にするぞ。」
「怒らないでください。私は車輪職人ですので、車輪作りに例えて説明させていただきます。車輪を作る時、手先だけで急いで削ると省力にはなるけどガタガタな車輪に仕上がります。ゆっくり、丁寧に心を費やして削ると車輪は圓くなります。車輪を作るには技術が必要です。削り方が早くても遅くてもダメです。その手と感覚だけが頼りになります。この不快不慢(早くもなく遅くもなく=急がず、考え過ぎず)は、心に手が応じた功夫(技、テクニック、コツ)。これを息子に伝えているのですが、まだ功夫が足りません。ですから、70歳になるというのに引退もせずに働き続けています。その本を著した聖人もまた、その知恵を言葉で伝えただけで、本質を伝授しきれずにこの世を去ったのではないかと思います。そんな訳で、聖人の残り滓だと申し上げたのです。」
師匠は弟子に、丸や四角という基本的なきまりを教えることはできますが、技術の高低は弟子の努力。武術にしても師匠は弟子に型を教えることはできますが、功夫は、自分自身の修行を通して実としていくもの。
本に書かれていることは貴重ですが、大切なのは、その本質を追及理解すること。本を暗唱できるからといって、本に書かれている事柄を掌握しているとは限りません。
言葉や文字で伝えることの難しさ、あるいは、書き残された知識は得られたとしても、そこに尽くされていない肝心な神髄は理解することができないことを意味する比喩として言及される話となった。
ーーということで、私のブログも残りカスですな。 続きを読む